プロフィール

原田たかきのプロフィール

原田たかき「私の履歴書」

出生から学習塾起業まで
1991

6月23日誕生

平成3年(1991年)6月23日、愛知県の田舎で誕生。幼少期は工作が好きで、欲しいおもちゃを買ってもらえないときは、自分で折り紙や牛乳パックを使って似たようなものを作って遊んでました。また、乗り物(特に、「はたらく車」)が大好きで、地域の消防署のイベントに参加して消防車に乗せてもらったりしていました。

1997

愛知県東浦町立生路小学校 入学

小学校では読書に熱中し、特に歴史の本は幅広く読み漁りました。休み時間には頻繁に図書館に通い、伝記コーナーの本をすべて読破。ある日クラスの友人が困っていた時に手助けをしてあげると、その友人から「たかきは本当に優しいな。学級委員とか向いてると思うよ。」という言葉をもらい、それをきっかけに学級委員や児童会長を務めるようになっていきました。

一方で、元来比較的内気な性格だったため、人前に出て話すのは得意ではなく、何かと苦労することが多かったです。しかし、同時に負けず嫌いな面もあり、必死に練習してそれなりに人前でも堂々とできるようになりました。

2003

愛知県東浦町立東浦中学校 入学

その後、地元の愛知県東浦町立東浦中学校に進学。その学校はいわゆる不良と呼ばれる生徒が多いと言われていた学校であり、実際に自分の小学校時代の友人の数名もやんちゃをするようになり困惑したことを覚えています。

しかし、当時通っていた塾の仲間たちと、「こんな環境だからこそ逆に勉強を頑張りまくってやろう!」と結束し、毎回の定期テストで競い合い、切磋琢磨していました。その結果、その代はまれにみる高い高校合格実績を出したらしいです。

また、部活動では剣道部に所属しました。1年生の最初の部活動紹介で剣道部の先輩たちのパフォーマンスに感動し、それまで経験はなかったですが、迷わず入部を決めました。勢いのある攻めのスタイルを見込まれて団体戦では先鋒を務め、3年生時には副部長に。決して強いチームではなかったですが、皆が仲良く、まじめで非常に充実した部活動だったと思います。最後の大会は2回戦敗退でしたが、最後の大会で一本を決めた瞬間は今でも鮮明に覚えています。

さらに、小学校に引き続き中学校でも生徒会長を務めました。当時は何でも自力でやろうとしてしまう傾向にあり、他の生徒会役員とうまく連携することができずにぶつかることも多かったのですが、この経験を通して人と協力する重要性を学ぶことができたと思います。

2006

愛知県立旭丘高校 入学

中学卒業後は愛知県第一の進学校である旭丘高校に進学。生徒の自主性を非常に重んずる学校であり、服装・頭髪も自由だったため、若気の至りで派手(奇抜?)な髪型や服装にしており、今思い返すと恥ずかしいです。一方で、中学校と同様に部活動は剣道部に所属、生徒会長を務めるなど、見た目に反して真っ当な活動を行っていました。生徒会では、校内美化を公約に掲げて活動。服装自由のため履物も土足である一方、教室の床の材質は木製フローリングであったため床の損傷が激しいことが当時問題となっていた我が校。そこで、この問題の改善を目指して掃除制度の見直し、床保全のPRなどを行っていきました。

2年生の後半から、他校の友人の勧めを受けて校外でボランティア活動等を行う学生団体に所属。加入直後に役員抜擢され、団体の運営業務に携わりました。同団体は年に数回名古屋市内の大きな施設(当時のナゴヤドームなど)を貸し切って大規模なイベントを開催することもあり、その企画・運営活動は非常に大変だがやりがいがあり、多くの学びを得ました。

また、高校時代に軽音楽部の友人の影響でロックやHR/HMのジャンルの音楽が好きになりました。初めて「Slipknot」の楽曲を聞いた時の衝撃は忘れられないです。それ以来近所のレンタルCDショップに通いつめ、様々なロックバンド、メタルバンドの楽曲を聞き漁るように。邦楽では「X JAPAN」、洋楽では「Children Of Bodom」がお気に入り。この影響でギターをかじり始めました。

2009

高校卒業後の浪人時代

高校生活を謳歌し過ぎた反動か、大学受験は非常に苦労し2年間浪人してしまいました。昔からの目標であった東京大学文科一類を目指し勉強していましたが、2度目の受験である1浪の時にはわずか2点弱の差で不合格。2度目の不合格に打ちのめされましたが、両親をはじめとする周囲の人々の励ましで立ち直り、もう1年の浪人を決意。最後の1年はこれまでの自分の勉強スタイルを徹底的に見つめ直し、予備校の先生方のアドバイスを積極的に取り入れながら勉強方法を一から改善し、独自の勉強方法を編み出していきました。その結果成績は急上昇し、センター試験本番では模試も含めて過去最高得点を獲得。二次試験はやや苦戦したものの、3度目の挑戦で無事に悲願の東京大学文科一類への合格を果たしました。

2011

東京大学文科一類 入学

東大の仕組みは、1,2年生時は全員教養学部に所属して幅広い分野の科目を学び、3年生からそれぞれの専門の学部に進学するというものであり、自分は文科一類の常道である法学部に進学しました。東大の法学部には政治コースがあり、法律学と政治学を一緒に学ぶことができます。実は東大を目指した理由の一つはこの点でした。法学部進学時には迷わず政治コースに進み、政治学の勉強に勤む毎日。一方で、想定外に法律学の面白さに目覚めてしまい、本来は必要のない法律コースの必修科目である法律科目もすべて受講。なお、3年生から本郷キャンパスに移ったため、それに伴って交通の便の良かった豊島区に引っ越しました。 

また、バンドサークルにも所属し、高校時代に目覚めたギターを本格的に開。残念なことにリズム感が絶望的になく、HR/HMの速いテンポの曲が上手く弾けずに散々苦労しました。大好きな「X JAPAN」の曲が全く弾けなかった時の絶望は忘れられないです。しかし、通学中の電車の中でメトロノームを聞きながらリズム練習をするなどの努力の末、徐々にリズム感が鍛えられ、やりたい曲を弾けるようになっていきました。サークルでは執行役員のような役職に就き、主にサークルの会計部門を管理していました。

さらに、実家が裕福ではなかったので、生活費を稼ぐために学習塾でのアルバイトにも勤みました。その際、浪人時代に編み出した独自の勉強方法や考え方が生徒たちに非常に好評で、自分の教え子から東大、早慶、医学部合格者が続出。また、普段のおちゃらけたキャラがうけ、小学生の子どもたちにも好かれました。このアルバイト経験を通して子どもたちを指導する仕事の楽しさ、やりがい、奥深さを実感。
一方で、大学生活は周りの同級生たちのあまりの優秀さに圧倒され、劣等感と戦う日々でもありました。試験の成績だけでなく、様々な面での思考力や行動力など何をとっても同級生たちに勝てないと感じるようになり、進路に関しても迷走してしまうことに。そして迷走の末辿り着いたのが、子どもたちを教えているときが自分は一番輝ける、そしてもっと自由に自分の思うような指導をしてみたいという結論でした。そこで、大学卒業後は進学、就職をせず、独自の方法で子どもたちを指導するべく、学習塾を開業しました。

2015

学習塾経営

大学卒業後、当時住んでいた池袋3丁目地域でいい物件を見つけ、要町駅から徒歩5分ほどの場所で個人事業主として学習塾を開業。「東大卒講師による個別指導」を売りに、近隣の子どもたちを指導。対象は小学生から大学受験生まで幅広く対応しました。また、主にご年配の方々を対象としたPC・スマホ指導のコースも作り、大人の方々にも指導していました。さらに、地域の子ども食堂や留学生支援団体の方々からの依頼を受けて連携して教育事業に当たることも。このように、アルバイト時代とは全く違った多様な教育事業を展開していくこととなりました。

指導方法も自分で一から構成できるため、自分が興味を持った要素を指導方法に積極的に取り入れ、実践。当時興味をもってかじっていたプログラミングの知識を駆使して教材作成ツールを作成したり、コロナ前の時期に既にオンライン授業の可能性に目を付けてZoomでの授業体制を整えたりするなど、当時の常識にとらわれない柔軟な発想で独自の指導方法を構築していきました。自身が日々楽しみながら新しい指導方法を考案していく姿勢には生徒たちも興味を持ったようで、生徒たちも真似して独自の勉強方法を考えて見せてくれるようにもなりました。

また、開業したことで単なる一講師ではなく経営者にもなったこともあり、どのようなサービスが子どもたちに好まれるか、どうすれば近隣の方々に塾の存在を知ってもらえるかといった経営面の課題に日々挑み続けることとなっていきました。開業資金は非常に少なかったため、自前でデザインしたチラシを家庭用プリンターで印刷し、近隣にポスティングしたり駅前でティッシュ配りしたりするなどして地道に宣伝。
ある時期、資格の勉強をサポートしてほしいという社会人の生徒が入塾し、その方の勧めもあり、自身も行政書士試験受験に向けて勉強することにな理ました。大学で法律学をかじっていたことが功を奏し、その年の行政書士試験に無事合格。行政書士としても開業することになりました。

原田たかきの「行政書士」としての実績をまとめました。

行政書士 原田たかきの実績

現在まで